猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

転び方を教える(1)

 

 みなさん、スキーをしたことはありますか(ここでは競技としてのスキーではなく、レジャーとしてのスキーの話をします)。私は雪国の観光地で育ったためか、スキーは必修科目でした。学校の体育の授業でスキーとスケートが扱われていました。 

 スキーは「慣れればとても楽しいがそこに至るまでが大変なスポーツ」のひとつだと思います。もちろん大変というのは相対的な表現で、「雪の上をあえて滑る」という、そうそう実生活ではしないことをするわけですから、そのぶん慣れが必要だという話です。慣れという意味では自転車に通ずるものもあると思います。自転車は乗り方を覚えてしまえば非常に便利なツールですが、乗れるようになるまでの期間、何度も試行錯誤しませんでしたか?

 

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 話は、先のスキーの授業に戻ります。私の初スキーはその授業でした。授業ではひとつの班あたり児童5~6名に対し教員1名が指導をするというシステムでした。自分の班は教頭先生が担当することになりました。冗談をいってみんなを笑わせることが得意な、小柄なおじいちゃん先生でした。私は昼休みによく一輪車や竹馬を教えてもらっていたので、内心とても嬉しかったのを覚えています。「彼はかつて国体選手だった」という噂は、あとになってから聞きました。

 同じ班の子は全員運動部で運動センス抜群な子ばかりでしたので、私は先生に「自分は運動能力も低いし、一度もスキーをしたことがない」と訴えました。ついつい、とても不安でなにより皆の足を引っ張るだろうとこぼしました。身体が弱く長時間外で遊ぶことが難しかったため、運動経験が少ないぶん私はスポーツ全般に自信がありませんでした。

 先生は笑顔で「心配いらないよ」と言いました。最初から滑れる人なんていないしあっという間に滑れるようになる、と。先生が嘘をついたところを見たことがなかったので、頑張って先生とみんなについていこうと決めました。

 

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 スキー場に到着し早速ゲレンデに出ます。スキー板でのよちよち歩きに慣れたころ、先生は不思議なことを言いました。  

「スキーは転び方が一番大切だよ。これから最高の転び方を教えます。」

いざとなったら転ぶ。
それも、正しく転ぶこと。

頭を山のほうに向け、足を横向きに揃えてブレーキにすること。

正しく転ぶとその地点で止まることができる。そうしたら先生が起こしに行く。
間違った転び方をすると、止まることができずにどんどん滑っていく。加速する。途中で誰かにぶつかって相手も巻き込んで怪我をするかも知れない。最悪の場合、柱に激突して命を落とした子もいる。

転び方がわかっていれば、そんな危険はない。

「……というわけで山の少し上のほうに登って、先生がお手本を見せるから皆で転びながら下に降りてきましょう。」 

高いところに行く人は皆上手い。だから、転んだ人をちゃんと避けていってくれる。大いに転ぶこと。今日は一日かけて上手に転べるようになりなさい。

   教頭先生は児童からの信頼のあつい方でしたので、班の皆は言うことをよく聞きました。

 

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 それにしても、やっと歩けるようになった程度でリフトに乗るのは、本当に怖いものです。それだけ山の高いところの急な斜面から滑り出さなければならないのですから。

(まずはなだらかなところで練習したいと思っていたのに…。)

  体の小さいときだからこそ、雪山は余計に大きく見えました。

 恐怖の原因は、予想以上にスピードが出てしまうことでした。歩いたり走ったりする速度と比べものにならないほどスピードが出るわけですから、その感覚に慣れるまでは自分の体がコントロールできない気がしたのです。

 リフトで隣になった先生は、「自転車、上手に乗れるでしょ」と言いました。それに、こないだ一緒に一輪車練習して乗れるようになったよね。竹馬も。大縄も。…などなど。そうです、教頭先生は昼休みになにかと外に出て私たちと遊んでくれていたからこそ、私たちがどのくらいの身体能力なのかよく知っているのでした。

 

 つづく

自信についての所感

 受け持っている生徒たちが総じて、自虐的な発言ばかりします。もちろん背景には主に学力がふるわず自信喪失気味だという事実もあるでしょう。実は講師の私こそが無意識に自虐的な発言をしており、生徒たちが真似ている…という可能性もゼロではないので恐ろしいです。多感な年頃の子になるべく悪い影響を与えたくはないものです。

 さて、自虐的な生徒たちは、周囲の観察眼に長けている子が多く「空気を読む」タイプの子であったりします。彼らを見ていると、どこか大人びた(というか夢のない、斜に構えたというのか)印象を受けることもあります。 

 巷では、「何かができるようになるには、ある程度の自信が必要だ」などと言われているようですね。これに関して私も概ね同意見で、新しいことをはじめるときはどうしても未知への恐怖が伴うように思うのですが、その恐怖を乗り越えるのに一役買うのが「これまでできた」とか「自分ならできる」とかいうよくわからない自信なのではないでしょうか。「できるはずだ」「できないわけがない」「前回よりできている」など騙し騙し何度も経験を積んでいくうちに本当にできるようになった経験、みなさんもありませんか。 

 自虐的な子は逆境に対するふんばりが弱くなりがちな気がします。最初から諦めモードなのです。私が同年代の頃はもっと能天気でいられたように思います。

 

 幸か不幸か、現代において「自分には誰にも負けないものがある」と言い切れる人は、自分にそう言い聞かせて世を耐えているか、よほどの楽天家か、単なる世間知らずかも知れません。なぜなら、インターネットメディアがここまで力を持った今、自分と他人との比較があまりに容易になったからです。昔はそもそも手に入れることができなかったような情報が簡単に入手できるようになりました。知らない街の同級生がどのくらいスポーツが得意か、リーダーシップがあるか、勉強ができるか、容姿端麗か、お金持ちか……好きなときに好きなだけ世界中の他人と自分を比較でき、いつでもどこでも何度でも、自分の至らなさを自覚できるツールがこんなに身近にあるのです。夢を語れない自虐的な生徒たちが、より自信喪失するための環境が整ってしまったというわけです。

 何らかの対象に自分のベストを尽くし懸命に取り組むことは可能でしょうが、残念ながら限界もあります。ネットをあさって限界ばかりが提示されていたら嫌になってしまいますね。人間は生まれながらにして不平等であるーーこの真実が、こんな形でまざまざと生徒たちの心に影を落としている…

 「誰にも負けないもの」を強いてあげれば、究極的には身体的個性(特徴)くらいしか残されていないように思います。ですが自分に瓜二つな容姿の人だって、世界中探せばヒットしそうですから困りましたね。私たちはどのように自信を持てば良いのでしょう?