猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

転び方を教える(2)

前記事の続きです。 

  その後、一度もスキーをしたことのなかった私がどうなったかというと、半日かけて皆の足を引っ張らない程度に滑れるまでになりました。

 それまでの半日間、何度転んだかわかりません。人生でいちばん転んだかも知れません。

 転ぶ必要のないところでも、坂がきつくなってスピードが出すぎていると感じたら、すぐ転んでは皆の足を止めました。周りの子もよく耐えてくれたと思います…。私はまるで「三年峠」の物語のように何度も何度も転びました。

 すると、転んでもすぐに起き上がって皆に追いつけるようになりました。私が足を引っ張らなくなると、皆でゴンドラに乗って上級コースを滑れるまでになりました。いつの間にか、恐怖は消えていました。いつでも好きなときに転んで自力で起き上がることができるとわかったからだと思います。「自分が雪の上で体をコントロールできる速度を把握」できたと感じました。自力では難しいところは先生や周りの人が助けてくれたのも大きかったです。

 

*

   ここからみなさんの予想通り、教訓めいた話になりますので。

 

   間違いを恐れて、自分からは動けない子がいます。テストの点数が伸び悩んでいます。

 新しい知識やテクニックを習うと、その内容について自分で考え納得するまで次の問題に進まない。それは悪いことではありません。むしろ「解けないから」といって諦めずに、自分で考える時間を持つ事は非常に大切です。しかし少なくともそれは、基礎ができている人の話ではないかと私には思われてなりません。

 基礎知識や経験のないまま自分で考えるとなると、間違うことも多いことでしょう。なぜなら知識と思考は車の両輪のようなもので、知識のないまま考えるというわけにはいかない性質があるからです。特に初等〜中等教育では、教えられたものを「鵜呑み」にする力も必要になってきます。よくわからないまま解けるようになってしまった後で、振り返って「こういうことだったんだ」と気づいても、受験勉強ではさほど問題ないと思います*1。大学に進学したあとで理論がわかれば間に合うのではないでしょうか…?

  これは「ある程度賢い」からこそ、陥りがちな話なのだと思います。少し先の予測がつくばかりに余計動けなくなってしまう。失敗するくらいなら最初からやらないほうがいいとか、完璧主義なので書いた部分は合っていてほしいとか、概ねそんなところでしょうか。

 この例は勉強だけでなく、色々な場面にも当てはまるかも知れないと思ったのでスキーの例をとりあげてみました。

 身体を動かして(まず問題を解いてみて)、どうやったら転んでしまうのか何度もやってみて(問題演習と答え合わせをセットでやって)、それから考えてまたリフトに乗る(模範解答と自分の答えを比較して反省してから、また演習をする)。このサイクルを繰り返せば、嫌でも滑れるようになります。納得するまで進まないということは、ゲレンデに立たずカレーでも食べながら「どうやったら滑れるのかなあ」と悶々としているということです。カレーのそういう味わい方もあるのかも知れませんが…

 

 失敗を恐れて行動を減らすと、その分狭い世界に留まることになります。失敗しない代わり新しく何かができるようになることもありません。どちらを重視するかは時と場合と個人の価値観によると思います。ただ私が言えるのは、「失敗しないこと」より「どうしたらリカバリーできるか」を追求したほうが、トータルでメリットが出ることもあるということです*2

 そのときの私は、スキーを諦めるくらいなら転んでもいいので滑れるようになりたかったです。まあ、うまく転べば痛くないことを知っていたからですが。

   なかには何をどう頑張っても無理なこともありますが、無理かどうかさえ、挑戦しないことには判断がつかなかったりします。幸いなことに無茶して転んでも死なない程度の柔軟性と基礎的な運動神経を授けてくれた親に感謝しています。もちろんこうした個人のポテンシャルについてはよく吟味する必要があります。

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   あるいは。

 納得しないと進めないという子は、経験不足などでどこか自分を過信しているのかも知れません。「自分に理解力があると思っている」から、「納得を求める」とも言えるでしょう。

 しかし往々にして、世の中は納得できるようにはできていないものです。そもそも人間の理性には限界があるので、世界を正しく理解することなど原理的に不可能だと私は考えています。「納得できる」という発想が、子供特有の自我肥大状態なのかも知れません。

  自分の納得を求めるより、足で経験を稼ぎ、その経験に根ざした自分なりの世界観を構築し、間違っていたとわかれば破壊し、再構築し、そういう拙いことを繰り返しながら自分にとっての真実を獲得していってほしいものです。その積み重ねが、誰にも奪われることのない富につながるのではないかと私は思っています*3

*1:わりと程度の高い話をしています

*2:伝統的な日本の企業の考え方とは相性が悪いかも

*3:もちろんきれいごとです

転び方を教える(1)

 転ぶといってもキリシタンの話ではありません。という導入では本論に関係ない上わかりにくいので、ダイレクトにはじめたいと思います。 

 みなさん、スキーをしたことはありますか(ここでは競技としてのスキーではなく、レジャーとしてのスキーの話をします)。私は雪国の観光地で育ったためか、スキーは必修科目でした。学校の体育の授業でスキーとスケートが扱われていました。 

 スキーは「慣れればとても楽しいがそこに至るまでが大変なスポーツ」のひとつだと思います。もちろん大変というのは相対的な表現で、「雪の上をあえて滑る」という、そうそう実生活ではしないことをするわけですから、そのぶん慣れが必要だという話です。慣れという意味では自転車に通ずるものもあると思います。自転車は乗り方を覚えてしまえば非常に便利なツールですが、乗れるようになるまでの期間、何度も試行錯誤しませんでしたか?

 

*

 

 話は、先のスキーの授業に戻ります。私の初スキーはその授業でした。授業ではひとつの班あたり児童5~6名に対し教員1名が指導をするというシステムでした。自分の班は教頭先生が担当することになりました。冗談をいってみんなを笑わせることが得意な、小柄なおじいちゃん先生でした。私は昼休みによく一輪車や竹馬を教えてもらっていたので、内心とても嬉しかったのを覚えています。「彼はかつて国体選手だった」という噂は、あとになってから聞きました。

 同じ班の子は全員運動部で運動センス抜群な子ばかりでしたので、私は先生に「自分は運動能力も低いし、一度もスキーをしたことがない」と訴えました。ついつい、とても不安でなにより皆の足を引っ張るだろうとこぼしました。身体が弱く長時間外で遊ぶことが難しかったため、運動経験が少ないぶん私はスポーツ全般に自信がありませんでした。

 先生は笑顔で「心配いらないよ」と言いました。最初から滑れる人なんていないしあっという間に滑れるようになる、と。先生が嘘をついたところを見たことがなかったので、頑張って先生とみんなについていこうと決めました。

 

*

 スキー場に到着し早速ゲレンデに出ます。スキー板でのよちよち歩きに慣れたころ、先生は不思議なことを言いました。  

「スキーは転び方が一番大切だよ。これから最高の転び方を教えます。」

いざとなったら転ぶ。
それも、正しく転ぶこと。

頭を山のほうに向け、足を横向きに揃えてブレーキにすること。

正しく転ぶとその地点で止まることができる。そうしたら先生が起こしに行く。
間違った転び方をすると、止まることができずにどんどん滑っていく。加速する。途中で誰かにぶつかって相手も巻き込んで怪我をするかも知れない。最悪の場合、柱に激突して命を落とした子もいる。

転び方がわかっていれば、そんな危険はない。

「……というわけで山の少し上のほうに登って、先生がお手本を見せるから皆で転びながら下に降りてきましょう。」 

高いところに行く人は皆上手い。だから、転んだ人をちゃんと避けていってくれる。大いに転ぶこと。今日は一日かけて上手に転べるようになりなさい。

   教頭先生は児童からの信頼のあつい方でしたので、班の皆は言うことをよく聞きました。

 

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 それにしても、やっと歩けるようになった程度でリフトに乗るのは、本当に怖いものです。それだけ山の高いところの急な斜面から滑り出さなければならないのですから。

(まずはなだらかなところで練習したいと思っていたのに…。)

  体の小さいときだからこそ、雪山は余計に大きく見えました。

 恐怖の原因は、予想以上にスピードが出てしまうことでした。歩いたり走ったりする速度と比べものにならないほどスピードが出るわけですから、その感覚に慣れるまでは自分の体がコントロールできない気がしたのです。

 リフトで隣になった先生は、「自転車、上手に乗れるでしょ」と言いました。それに、こないだ一緒に一輪車練習して乗れるようになったよね。竹馬も。大縄も。…などなど。そうです、教頭先生は昼休みになにかと外に出て私たちと遊んでくれていたからこそ、私たちがどのくらいの身体能力なのかよく知っているのでした。

 

 つづく