『火垂るの墓』を通しで見たのは、今回が初めてでした。CMの差し込みでさえある種の癒しになった映画も、今回が初めてでした。
普遍的なものを描き、国境や世代を超えて愛されるスタジオジブリ作品ですが、特に国内では金曜ロードショーで繰り返し放送されることで高い認知度を保ち続けていますね。もちろんこの作品も例に漏れず、1988年に劇場で放映された後、幾度もテレビ放映されています。日本で最も有名な「節子」は、火垂るの墓の節子だといっても過言ではないでしょう。
しかし私の親は、この作品だけは「見たいなら一人で見て」と私に告げ、決して家のテレビで見ようとはしませんでした。おそらく今回の追悼放映も見ていないでしょうし、今後も見ることはないでしょう。ただ、VHS(懐かしい響きですね)はテレビ棚にきちんと置いてありました。
「日本人なら一度は見るべき」と高く評価しているにも関わらず、なぜ自ら見ることはないのか——それは彼らの私情を多分に含むためでもあると思いますが——普段は饒舌な彼らでさえ言葉を失うほどに衝撃的な内容なのだろうと、当時小学校中学年だった私は受け取ったのでした。
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鍵っ子だった私には、帰宅後の自分に与えられたミッションがいくつかありました。まずは干してある洗濯物を取り込み、きれいにたたんで、それぞれタンスにしまいます。次にお米をといで、炊飯器にセットしておきます。もちろん宿題もささっと片付けます。
ちょうど国語の教科書か資料集に掲載されていた野坂昭如の作品『凧になったお母さん』に、私は名状し難い引力を感じていました。周囲の友人のなかでも『はだしのゲン』をはじめとする戦争もののグロテスクで悲しい話を図書館で借りて読むことがなぜか流行していました。感受性を育む時期だったのかも知れません。
待ってましたとばかりに、私は例のビデオテープを棚から取り出します。88分。見終わるまでに親は帰ってくるか。こわい話だったらどうしよう。暗くなる前に見終わるかな。など一通り思案した結果、「はじめとおわりだけ見てみよう」という結論に至ったのでした。
火垂るの墓は物語の構成上、冒頭部分を見ると二人の結末(亡くなってしまったこと)がわかってしまいます。正確にいえば清太はギリギリ生きていたわけですが、ほぼ屍のようなもので、周囲から人間扱いすらされないわけです。
3歳で観た『銀河鉄道の夜』で虚構の死に衝撃を受けて泣きわめき、4歳の頃亡くなった曾祖父のお骨を拾い現実の死に向き合ったショックで寝込んだ前科のある私は、「主人公であるはずの清太」(その頃は「主人公は死なないものだ」と思っていたのです)へのぼろ雑巾のような扱いに早々にカウンターパンチを食らって、ビデオを一時停止し、さらには勢い余って入力切替ボタンを押しました。
つづく*1