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猫日記

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

WETな時間と自己

手記>闘病記

毎日、何かしら前に進まなくてはいけないと思う。「何かしら積み上げていかなくてはいけない」と、勝手に焦っている。

物理的な「時間」が不可逆的に流れているのに対し、私の「時間」が流れずに、何度も同じ一日を繰り返しているように感じる。

日課の「料理や掃除や洗濯」は、いくらやっても前に進んだ感じがしない。何度繰り返しても「元に戻ってしまう」。料理は、食べてしまえばエネルギーとなりいずれ排泄される。放っておけば腐って自然にかえる。掃除や洗濯も、建築物や衣類が朽ちる、あるいは自然に還る過程を遅らせているに過ぎない。

LOOPだ。循環する時間のなかにはまりこんでしまったようだ。

 

「私」が「生きる」には、時間は「流れ」ていなくてはいけなくて、不可逆的な時間に対して自分なりの意味づけをしたくなってしまう。

それも、何かを構築したり生み出したりしてそれを形として「残す」ことに重きを置いていて、循環するような…メンテナンスすることに価値を見いだせていない。

料理が上達するとか、部屋が綺麗になるなどと前向きに捉えることができないものだろうか。世界でも屈指の美味しい料理に出会う機会が、東京にはたくさんある。

星の見えない東京に来て、真っ先に呼吸器を病んだのは誰だ。

 

私は、「大した人間でもない自分の人生に特に意味はない」ことを知っている。

しかし同時に、意味づけをしないと、追い込まれる。貧相なイメージとしては…近い未来に戦争がはじまったとして、私と思想を異にする政治の都合で自分の命を差し出さなければいけなくなったら、絶望するといったような。

きっと、病で命の終焉を悟るときとは全く違う。病による絶望はむしろ、可能性ある未来に開かれていて、眩しささえ感じられることだろう。

 

すべては相対的なものだ。唯一、死は絶対だ。

意味のない生を受けいれることができない私は、今ではなぜか、絶対的未来である「死」までの限られた時間を、少しでも何かしらの表現活動に充てたいと感じる。表現によって「時間が前に流れ、己のなかに沈殿していく」ような気がしている。むしろ「自分の中では循環あるいは止まっているような時間」を使って、創作物を残すことによって、前にしか進まない「物理的な時間」のなかへ、自分の存在を確保できると思い込んでいる。これらはきっと妄想だ。

 

日記などに代表される、私の表現への羨望は、失われるわりに発展性の乏しい 「物理的時間」の消費への抵抗だ。創作にあこがれ、できる限り 「美しく」時間を失ってゆきたいと思った7年前と、本質的にあまり進歩していない。

 

本当にしたいことは、はっきりとわからない。好きになる努力が足りていないのかもしれない。「本当に」のハードルが高いのかもしれない。

「表現したい」という一歩が、手記を書くことなのだろうか。これは紛れもなく、いまの己の意志であり、失われかけている意欲がいっとき沸き立つことだ。 ゆくゆくは手記以外の何らかの形で「意味のない時間」も引き受けることができるようになりたいのだ。

 

私は、私に、自由に、なりたい。