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猫日記

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

闘病記/認識(自己以外のものの存在感)について

手記>闘病記 文科>西洋哲学

「私が、世界をどのように認識しているか」について、自意識というかメタ認知能力(transzendental?統覚?)方面からしばらく考えていきたいのだが、「さて、どこからはじめようか」というところである。

 

「人は、なぜ世界の存在を疑わずに生きていられるのか。自己だけでなく他者の存在を認められるのか。なぜ目の前のネギを認識できるのか。」

この問いを己に課し続ける理由は、「世界に存在している実感を得たい、世界に意味を見いだしたい、つーかまじではやく普通に生活したい」からだ。 

とは言っても、 私は今のところ目の前にネギがあることや、PCがあることを疑わないで済んでいるし、だからブログを開設したりできているからまだいけるはずだ。
 
でも世界の見え方は健常者より少し異なっている気がする。
  
★過去における食材の認識は下記のようだった。
・目の前にネギと豆腐とワカメと味噌がある
・さらにまな板と包丁と丁度良いサイズの鍋がある
→「料理を作ることができる可能性」を感じる。例えば「簡易的な味噌汁を作れる」など
 
★現状の認識では下記のようである。
・目の前のネギが無機質というかプラスチックか何かで構成されているように見える
・それはネギに見えるし独特の匂いも感じるが、そこにネギが存在しているだけで「料理に使える」などと感じられない。
・何と言えば良いのか、これまでのネギとは違うんだ(笑)
・私はクックパッドの指示通りに、ネギを切ることもできる。しかし、それを「食べ物」だと感じない
「食べる、という行動とネギが結びつかない」。まあ対象はネギじゃなくてもいいんだけど
 
身体と考えがばらばら。頭では食事をとろうと努力している。
昼時になってお腹が鳴ると、頭で「お腹が減っているはずだ」と捉える。
だが目の前のご飯が、食べ物に見えない。
いや、見えているのだが、食べ物であるという実感がない。
そこで考えるのは、「これは食べられるご飯というものだ。これまで食べてきたのだから」ということだ。
そこで一口、「おいしい」と味を認識できた途端、食べ続ける意味がわからなくなるので、食べることを止める。なんだろうなこの感覚は。
そんな感じで。
 
学部生の頃は、せっかく大学行かせてもらって、しかも文系で暇なんだから何か良い解決方法はないかなぁと模索した。
「身体」と「心(意識?)」って切り口で、フランス哲学者メルロ=ポンティ氏と精神病理学から攻めていったけど、自分なりの新しい哲学は打ち立てられなかったな。
デカルトさんの言いたいこともわかるけど、ちょっと現代的ではないかなーって感じだった。
そこから「あともう少し考えていけるかな」って思ったんだけど、論文執筆途中で言葉のサラダ化が酷くなったので、統覚の根源に関する自分なりの結論が出ないまま学生を終えてしまったんだ。
「統覚には情動的所与、んー、エロスとかタナトス的なものが必要なのかなぁ」というあやふやな感じで終わってしまった。心理学は知らないけどフロイトあたりで止まっちゃってるのかな。書き終えられただけで御の字って感じで、読み返すのも怖くて、当然、口頭試問のときは平謝りでした。
 
まあ、結論が出たところで「ネギを食べたい」って思えるどうかは別問題だと思うけどね。ていうかエロスとタナトスとネギを並列に持ってくるのおかしいよなw
眼球が正常に機能してて脳があってちゃんとモノが見えているのにそれに意味を付与できないっていうのは物理的な問いではない、でいいんだよね?
 
 
※備忘 
西洋VS東洋的な問題も考えたかったんだけど時間がなかった。