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猫日記

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

他者云々 前提その1

文科>西洋哲学

目の前のビールのせいで、ゴールが見えないまま問いを立ててしまった感が否めない。これは論文ではなく手記なのでご容赦願いたい。このまま愛するウイスキーに辿り着けぬまま死んでしまうかもしれないが、まあそれはそれで自業自得です。

 

「私」の流れについて、哲学からのアプローチ(すごくざっくり) 

西洋哲学が「他者不在」に陥った背景として、「私という主観が他者を認識する」という考え方があった。

世界を対象化し、計量化し…ってやっているうちに「主観が…」「客観が…」という図式が一般化したもよう。現象学の祖フッサールさんによると、この考え方は確かガリレイさんの測定術からはじまる。

近代的な世界観(今も?)の特徴はおおむね下記らしい。

  • 空間、時間の数式化と理念化←ガリレイさんの仕事
  • 生活世界と理念化された世界の乖離(ようわからん)
  • 心身二元論の成立←デカルトさんの仕事

ガリレイさんは悪気があったわけじゃなくて、生活上「…のために」という目的にかなう測定基準を作りたかったんだと思う。

ようは経験的&実践的な認識を数学に結びつけたわけで、自然を数学的に捉える(否、人間の持ちうる数学的ものの見方を自然に当てはめる)ことに成功したんだよね。人はみんなこの恩恵に預かっているはずで、数学のおかげで近代物理学は成功に導かれたことに間違いはないと思う、本当に。デカルトさんは皮肉屋で朝寝坊だけど悪気はなかった。コギトの概念は確実な真理の探求の結果ともいえる。哲学の出発点として「思惟する我の存在の確実性」に到達したと物の本はいっているし評価されるべき。地動説を発表しようとしたけど政治動向を見て諦めたし。

だからって単純に「私=純粋に考える作用のみの存在」に同意したらけっこう厄介

考える行為以外は「私」ではないってことになる。だけど周囲から規定されている「私」は、意図の範疇をはみ出した行為も含め「見られ」たり「知られ」たりするもので、必ず身体性を孕む。

そんなわけで、デカルトさんの心身二元論による「他者」認識の失敗の後、他の哲学者は「どうやって他者を復権させていこうかなー」と色々考えた。例えば二元論に最も説得力を持つ解を示した諸悪の根源カントさんの考え方は

コギト(byデカルト)→「超越論的自我」「超越論的意識」(byカント)

決定的な違いは、コギトは欲望含め感情的な部分も持つ→「超越論的…」になってくると論理的主体(欲望とかに支配されない純粋なもの)。人は、神とか物自体は認識できないけど、現象は把握できる、みたいな。 

「主観」「客観」という発想から認識と対象の一致を確かめることは原理的に無理っていってたのはデカルトやカントだけじゃない。ロック、スピノザ、ヒュームもそうで、教会の権威が失墜していたという背景も無視できない。確かこんな流れ。

 

自然=神

神なら、マジですごい法則にのっとってるはず

それなら自然の法則を探求したら神を把握できるんじゃないか

現実世界に意味を与えた(人間が)

自然は完全に物理法則に従うものとされる。「身体」にも適用(これが心身二元論

 

二元論のメリット

世界を単純に捉えることができる。科学的手法は自然の開発に便利。

「なるべく少ない要素で万物を説明したい」のは哲学の野望でもありつつ、現代物理学にも受け継がれてる(電磁気学とか重力とか相互作用とか)ようです。

 

で、カントさんの理性(kritik der reinen vernunft)に関する話には続きがあって、個人的にはけっこうかなり大切なのでまた改めて

 

つづく(といいな)