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猫日記

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

超越論的還元とかのざっくりした定義

文科>西洋哲学

想像してごらん

 

美味しい寿司が目の前にあって、それに触れる(食べる)ことができる。

私は寿司の実在性を疑わない(疑いたくないし)。しかもその感覚は寿司の実在性を証明できない。それなのに、私たちは受動的(であるかのよう)に、「そこに寿司がある」と意識する。

では、なぜ寿司の存在を疑わないのか。私の場合は寿司が好きだからその存在を信じてたいだけなんだ、あなたが好きなのお願い行かないで

 

超越論的還元

方法:「寿司がある」という思い込みをやめてみる。

→寿司以外の、おしぼりや緑茶や酒やカウンターや職人や他のお客も、すべて「意識における現象」となる。

これを、フッサールは「純粋意識への超越論的還元」と呼ぶ。

 

純粋意識

目の前に差し出された寿司の形は、自分の意志では変化させることができない。

「この軍艦のノリ、巻き方雑だな」って見えた時点で、純粋意識に知覚されてしまっている。

知覚的な直観はそういう絶対的な動かしがたさがあってそれを「個別直観」という。軍艦巻きの存在は疑えるけれど、「軍艦巻きが出てきた」と思ったことは疑えない。

軍艦巻きが妄想なのか実在しているのか、それには答えられない。

 

外部世界があるという確信の成立条件(認識の正当性の源泉として)

・本質直観(例:赤い「エビ」像が知覚として直観される+「赤い」という言葉の意味本質も意識に直接与えられる。赤さ(赤くはないかもしれないけど一定の色を持つだろう)はそれ以上疑えない。

・本質や知覚像が与えられることで、我々は外界の客観的実在性を確信する。エビが与えられ直観され見えていることだけは「確か」。

 

身体=制限?

・世界と意識は身体で隔てられていて、身体で知覚するしかないから、意識は制限されてしまう。

・身体という器に意識が格納されてて、そこからしか世界が見えないイメージ

 

わたくし女だからか、身体性はもっと尊重されるべきだと思ってしまう。

 

そこで

現象学のなかでも、「身体」に関する考察に特化した哲学者がいたので次回記載しようと思う。

彼に敬意を表してパリまで墓参りに行ってみたら、大理石のような白い墓石に深紅の薔薇が一輪そなえてあって美しかった。

 

つづく(といいな)