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猫日記

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

メルロ=ポンティ:両義性

文科>西洋哲学 医学>精神医学

二元論はやっぱり解決されていませんでした

 

文献をあさっていたら、今更気づいたことがあったので追記します。

フッサール先生にとっての「客観性」や「世界」は、正常に機能する主体によってだけ構成されるものだった。彼にとって、精神病理的な経験は健常者の経験の「変様」としてのみ理解されるべきもので「心の本質的同一性」を欠いてしまうという理由で、共通世界に入れちゃダメらしい。

ということは、私のように見えちゃダメなものを見たり妄想から抜け出せなかったりする「病的な心理状態」にある者は、間主観性(=「他我が『私』と同じ主観として存在し、かつ『他我』も私と同じこの世界の存在を確信しているはず」という確信)の対象から外される。

 

知覚直観だけを「他者」了解の起点に据えたから、限界があった。

「他者がいるという『私の確信』」…おそらくそれは、どこまでいっても思い込みの可能性が拭えない。もっと原的なものを据える必要があった

 

問「私と他我の相互存在の確信の条件は?」

方法1.自分の経験を手がかりに他者の行動を観察していろいろ類推する  

方法2.他者は私と同じような心とか身体を持つ私ではない主観だと思うことにする

どちらにせよ「私の身体知覚」と「他者の身体知覚」の移し入れ、という考え方を避けられないので説明できない部分が出てしまう。当然これでは「健常者の心」と「病的な心」は区別される。

(→知覚を「単なる感覚器官への知覚」としてだけ受容する、という症例について後日記したいと思います) 

 

 

モーリス・メルロ=ポンティ

彼である。パリ郊外の白い大理石のお墓に眠っているのは。

ワインにありそうな名前ですが、サルトルさんと訣別したりカミュさん(コニャックじゃなくて、アルベールのほう)と喧嘩して絶交した

メルロ=ポンティ先生は、デカルトとかライプニッツとか西洋哲学の伝統を受け継ぎながら(20世紀当時)最新の科学研究の動向を視野に入れていました。『知覚の現象学』を1945年に著していますが、その時点で現象学の限界を意識していたらしい、と鷲田清一先生が言ってるから間違いない。

 

★初期の仕事の位置づけ

学問的思考(特に「意識」「主観性」など知的機能の反省的分析+あらゆるものを物理的にみていく科学主義的分析)以前に、もうすでに私たちが生きてきた「(フッサール先生のいうところの)自然的世界」に一旦話を戻す

意識でも自然でもない(あるいは両方である)「身体」とその両義的な存在構造の分析

主知主義を批判

 

歴史的背景などはこちらをどうぞ。

123夜『知覚の現象学』モーリス・メルロ=ポンティ|松岡正剛の千夜千冊

 

 

メルロ=ポンティによる現象学の定義

 

現象学とは本質の研究であって、一切の問題は、現象学によれば、けっきょくは本質を定義することに帰着する……また同時に本質を存在へと連れ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその<事実性>から出発するのでなければ了解できないものだ、と考える哲学でもある(『知覚の現象学Ⅰ』序文より)

 

端折ると、

彼は身体を考える上で知覚の可能性を評価し、経験的実感にこだわった身体論を展開した。

・「身体はモノにも意識にも還元しきれない」と、身体は「対象」であり「自己自身」である両義的なものと位置づけ

・「心(意識)が身体を動かす」ことを認める一方で「身体は心のありようを規定する」と主張

「身体を物理法則へ還元する機械論的な発想を批判し、それを意識へと還元するフッサールを超えようとした」という読み方が妥当か。

 

身体的機能である「知覚」から二元論の対立を乗り越えようとしたけれど、結局「私(の意識)とは私の身体である」という結論になってしまう。。

とはいえ、「世界から意味を受け取るのは我々が身体的存在だからであり、そこから意味、無意味が出てくる」というのは、さもありなん。

 

それまで手に取った哲学書(あんまりないけど)の中で、実感に一番近くてしっくりくる説だと思った。まさか日本育ちの自分が、フランス哲学に共感するとは予期してなかった。

 

「生理学的因果の秩序と心的な秩序の原理は、異質で非連続的なものである」という

至極当然に思えるけれどよく考えると当然すぎて看過してたあるいは忘れてたけどかなり重要なことを繊細な筆致で指摘するところ

が萌えポイントです。

 

間主観性の起点は、知覚じゃないとしたらどこに据えればいいのか?

事故で脳を損傷するとかして知覚経験の意味を了解できなくなったらどうなる? 

 

次は、知覚直観へのネガティブなアプローチを試みたいと思います

 

つづけ(ることが大切)

 

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参考文献: 

精神病理学から当事者研究へ : 現象学的実践としての当事者研究と〈現象学的共同体〉(石原,2013/10)

http://hdl.handle.net/2261/55485