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猫日記

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

「意味はどこからくるのか」その2

文科>西洋哲学 医学>精神医学

「他」の了解の起点に知覚直観を据えたら失敗したので、一旦「私」が世界とか社会の中にいる前提で、知覚直観以外に「他」の了解起点になりそうなものを探してみようと思います。

 

「私」の定義

目標:話がややこしくなる前に、「私」の定義をできるだけクリアにする。言い換えると、(例によってもろもろ端折るが)「私」→「主体 "Subjekt(独)"」の定義を整理する。

哲学におけるサブジェクト(てきとう)

1 カントのいう「主観」(「客観」と対置される)

:経験を先験的形式によって統一する「認識論的自我(認識者)」=「私」

2 行為の「主体」

:1の認識者ではなく、行為の場面における行為主体の「私」

「私はコーヒーを飲む」の「私」=コーヒーを飲むという行為の「主体」

 

主体の社会的側面を思い出してみる

主体は、他者のいる世界で「意味」を把握し、それを他者と共有しながら生活していることにする。

乱暴に言えば、「私と他者は、世界に対し共通の意味を見出している」ので、私たちはそれをとっかかりにコミュニケーションを成立させ、人間関係を築いている。それが社会的な「主体」なんだと思う。

 

デカルト風にいえば「私たちには共通感覚が備わっているので、認識の場面だけでない様々な場所で、私たちは共通の判断を示す」。

→「共通の判断を示す」はたらき;デカルトのいう「五官を統一して綜合する、一種の社会的判断力」=「共通感覚」(あるいは「良識」 bon sens)

※この「共通感覚」が、その後「理性」と言い換えられ、人間の自然的な認識能力を指すようになる。『方法序説』によると、デカルト「共通感覚」は自明のものって前提にしている(もっと屈折した解釈をしたほうがいいのだろうけど、知性不足により割愛)。

 

身近な例でいえば、コミュニケーションの場で他者との会話を成立させる条件が共通感覚。同じものを見ているという意識もこのあたりから発生する

共通感覚は、「五官」から得た刺激に「意味」を持たせることができるし、それを他者と分かち合うこともできる?

としたら、

 

「共通感覚を失う」

≒「メルロ=ポンティのいう『身体が受け取る意味』を了解し得なくなる」

≒「経験の不成立」

といえる

先の仮定から、「共通感覚が知覚直観よりメタなレベルにある」説

なかなか抜け出せない仮説。。

 

メモ

Q十分な説明をつける必要もないほど、そこまで自明なのか…?

※Qに対するひとつの答えとして「近世的合理主義の表明/知識の民主主義の宣言」という解釈が望ましいかもしれない。

 

今日の理性の限界がきました(オムカエデゴンス)

つづきはまた…

 

予定

・共通感覚と自己意識について

共通感覚を失った(=経験的な世界から解放された)症例を、「精神病理学」という分野から臨んでみます(自分が医学書についていけるかが不安)