猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

現代猫語訳 般ニャ心経 その4 [玄奘三蔵訳]

前回までのお話

第一回 現代猫語訳 般ニャ心経(原本:玄奘三蔵訳)

  • 前經読下し〜空即是色まで猫目線で解読。

第二回 現代猫語訳 般ニャ心経 その2(原本:玄奘三蔵訳)

  • 般若湯酔いによりヒップホップ調で解読。

第三回 現代猫語訳 般ニャ心経 その3 

  • 第一回、第二回のおさらい&是諸法空想〜無限界乃至無意識界までの読下し。人間の認識や感覚は「空」であり、すべては「無」という思想に触れました。
  • これは、西洋(デカルト)的「我思う、故に我あり」とは相容れないものかもしれない
「我思う…と思う我は、無い」!?

(前經付)
摩訶般若波羅蜜多心經 唐三蔵法師玄奘
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。
色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空想。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。

第4回では、「無」の概念について吟味してみます

 西洋哲学を齧った吾輩は、こう思った

「思った」のは——わたし(主語) 

般ニャ心経より、「わたし」=「無」

したがって「思った」のは「無」

 自分で導き出しておきながら、唖然とするしかなかった。主語が「無」というのは……まるで日本語のようである。日本語(特に文学)は、英語のようにIとかitとか主語をわざわざ指定しなくても意味が通る。長年母国語として日本語を使ってきた経験上、特段主語を必要とする言語ではないとも感じている。毒姉のいう「空腹」も例に漏れない。

「お腹が減った(日本)」VS「I am hungry(西洋)」

  • I am hungry の主語は「I=わたし」である。hungryは形容詞なので、無理に直訳すると「私は空腹の状態です」とでもなるだろうか。
  • 「お腹が減った」という文の中から無理に主語を示すとすれば「お腹」なのだろうが、「誰のお腹か」は不明である。もしかしたら三人称視点で「彼またはそこにいる不特定多数の皆が、お腹を減らしている」のかもしれない。

 「お腹が減った」という一文は、どのように分解しても主語が謎なのに、大抵の日本人はこの文章を何の戸惑いもなく読み理解しているのだ。

 

これは、まさに『雪国』の冒頭で表現されているアレではないか。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 この文を英語でどう言うかというと、ノーベル賞受賞の契機となったサイデンステッカー訳では下記のようである。

The train came out of the long tunnel into the snow country.

 直訳すると「列車が長いトンネルを抜けて雪国に入った」とでもなるだろうか。

 「列車が雪国に入った」では「主語がまだ小さい」と思ってしまうのは私だけだろうか。「長いトンネルを抜けた」主語は、列車だけでなくもっと大きなもののように私には感じられる。「島村(主人公)」でもあり、列車でもあり、その他の乗客でもあり…

 どう明文化すればいいのか悩ましいがとにかく「その全て」が主語なのではないか。*1ある場所(視点?)が、雪国でないところから雪国に移動してきたように感じられないだろうか…。場所がトンネルの前からはじまっていて、トンネルの中へ入り、トンネルを通過したとき、そこは雪国であった、というような。

 述語が「現在進行形から完了形に移行する」と考えてもいいかも知れない。例えば、この一節を読んでいる途中には、読み手も列車もまだ雪国ではない。読み切ったそのとき、読み手も列車も島村も雪国にいるのだ。仮にそうならば、「この一文がまるごと主語」とも言い換えられるかもしれない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」が…と続けることもできるし、そのまま(文法上)述語だけの文も成立しうるのが、日本語の特性なのではないか。

 読み手が第三者として「 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と読み、その一節を「対象」としてとらえることで、都度、『雪国』の冒頭が成立する。…このように明文化してしまうと、どこか変な感じがするだろうか。

 読み手がいなければ『雪国』は…もっと拡大解釈すれば、日本語は、始まりもせず終わりもしない。それを拡大して「主語=」というと、例えば「私の人生」「彼の人生」という物語の読み手を想定せねばならない。「私」や「彼」は物語の登場人物である。では、読み手は誰だ?

 

つづく…はず

 

*1:大学入試とかでは違うのかなぁ…誰か教えてください