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猫日記

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

「正統の男性散文体」にかんする諸考察

文科>国文学 リベラルアーッ!

有り難いことにid:cj3029412様よりお返事をいただき心底感動しておりました。このエントリはその返礼と言うには自分語りに終始してしまうことをお許しください。しかし、あーうー、思いを伝えたく。まずは、お礼だけでも述べさせてください。

誠に…ありがとうございます

お顔も存ぜぬid:cj3029412様。

ああ、こうしてせっかくお返事をいただいたというのに、悲しいかな私は国文学を知りません。日本で生まれ日本で育ったに関わらず、私は日本語をはじめとする日本文化への親和性が低いことを自覚している。思い返せば中学生の頃から既に聖書的「ロゴス」偏重の思想が染み付いておりました。

ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.

はじめに言(ロゴス)ありき。言は神とともにありき。言は神なりき。

ヨハネによる福音書』1:1 

国文学における「男性散文体」と聞いてはじめに思い浮かんだのは、夏目漱石です。谷崎潤一郎も頭をかすめたのですが、彼は教科書から除外されていました。これの意味するところは「吉行淳之介」まで手を伸ばす…即ち当時中学生の私が「公立図書館で吉行を借りると保護者に連絡のいく土地」に住んでいたという事実です。谷崎を借りても連絡がいくだろうと私は憶測しました。

 いっそ。本屋で*1

さびれた街には本屋が存在しませんでした。正確にいえば本屋が次々潰れ中学生になった頃にはきれいさっぱりなくなっていた。…しかし大人向けの本はどこからか流通している!

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皆様は「白ポスト」をご存知でしょうか。「健全な青少年を育成するために」「ポルノグラフィをはじめとするアダルト向け諸メディアを健全に処分」するためのポストで、まだ私の地元には残っております。

もしかして、司書達は国文学も「ポルノ」の一部だと思っていたのでしょうか。中学生はまだ「子どもだから」「思春期だから」。

 きっと。白ポストの中には。

話が逸れました。

川端康成はどこが良いのかわからなかったけれど、今となっては「とても日本語らしい」と感じます。なんでもないような一節が、日本人だけに赦された主語の自然な省略を示していて、あー。うー。妬ましい。

例年の憂鬱な「読書感想文コンクール」は海外文学にばかり目がいく始末でした。中学一年生は『アルジャーノンに花束を』。次いで二年生『正義と微笑』これは太宰。三年生『異邦人』。二年生でも随分怒られたのに、三年生では「理解不能」と赤字のついた原稿用紙が返却されて参りました。

表現技法にかんしては、弱視の私には漱石も芥川も三島もただただ卓越しているようにみえます。ただ芥川のもたらす茫洋とした陰鬱さは好みではありません。作品全般に漂うあの不安感は、宿題で「トロツコ」を読んだときから受けつけなかった。イケメンという理由だけで国語の先生(女)は萌えていましたが、同じネクラなら私は太宰のほうが(皮肉にも)好きです。三島の文は、振れ幅は大きいのでしょうが恐ろしいほど完璧に作りこまれているように感じられます。そこにしなやかさはなく脆さと歯ぎしりが露呈し「諸君、硝子細工のやうに鄭重に扱つて呉れ給へ。」と脅迫されているように思えました。

小林秀雄について申し上げるとテストで得点しやすいところが私にとって大きなメリットであり、それは間違いなく例の

「ワイはワイであって同時に本居宣長である。どや!」

のお陰でありました。顔写真は既におじいちゃんでイケメンかどうかさえ判然とせず、教師はその「得点しやすさ」を推しているのだと思っていましたが、今になって私の勘違いだったような気もしてきました。

上京にあたり随分と本を処分しました。現在手元に残っているという条件付で、かつ(僭越ながら)「男性散文体」だと私が感じているのは、漱石、谷崎、梶井基次郎です。特例としてキリスト教枠に遠藤周作を挙げます。児童文学(こちらのほうが好みですが)を含めれば、そこに新美南吉宮沢賢治(現代の文筆家では内田麟太郎も)が加わります。それらを除くと書棚に残っているのは哲学書、語学書、医学書。ある意味徹底的にemotionを排除した書物ばかりです。所謂logos( λόγος)の圧勝です。

私は女性に生まれ、女性的感性を伸ばしてきたはずなのに、実のところ「ロゴスによってエモーションが押しつぶされて(あるいはロゴスでもってなぶり殺して)風前の灯」という有り様が、わたくしという現象でございます。

ものを読んだり書いたりするのに、文系も理系もないはず。ただ、おもしろいと感じる気持ちがそこにあるだけ。 

「文系か理系か」という区分はナンセンスである。という件は、かねてより悩ましい命題でした。大学でもリベラル云々の風潮が強かったので尚更意味のないことは知識として承知の上でしたが、それでも「まっとうな文系」という滑稽な表現を以て私の伝えたかったことは何だったのか…

それは、「文化」や「教養」だったのではなかろうか

  • 文化的な生活。それも日本文化のある生活
  • 本のあり、言葉のある生活
  • 衣食住が足りて礼節を知った人々と交わる生活

地元は衣食住もままならない人が身を寄せ合って住まう、県内屈指の貧困地域でした。そこでは「言葉」は必要最低限しか用いられず原初的な「!」あるのみです。農民は皆自然へ畏敬の念を持ち、太陽をはじめ自然は信仰の対象であります。こうした環境が私のロゴス性を引き伸ばしていたとしたら。あー、スピノザ。うー、デカルト

女流作家の文章は、なかなか読めませんでした。これは今どき珍しく非常に厳しい家父長制を代々受け継ぐ貧農の家系の影響であります。そこでは今なお長男以外――次男以降と女は、人間ではない。女に生まれた時点で私の「人生」は既に終わっておりました。

さらに言えば「西洋哲学、特に認識論系譜の哲学者には女性がいなかった」。歴史的側面をふまえるとこれも興味深いことであります。だからこそ私はロゴスに憧れた。それは己の股間が惨めだったから。男性に生まれなかったから。人間ではないから。

「女子(おなご)は勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい」

この発言は女性蔑視などという軽々しいものではない、と私は感じます。その解釈じたいフェミニスト的思考停止に思われます。幸か不幸か私は女でありながら本を読んだわけでありますが、根本的なところで教養のない私には「鈍牛」のあーうーという間の取り方が非常に含蓄ある音楽に聞こえてなりません。教科書で向田邦子三浦綾子を少々読みました。私を救ったのはおそらくキリスト教的思想でした。ここでもやはり…あーうーを思い出さずには居れません。

エモーションを抑圧し。繰り返される諸行は無常。何度でも蘇るエモーション。情動的所与が、決定的に不足している。渇望。

あーうー、こういったわけであります。ロゴスに憧れて。エモーションを蔑ろにして。本当は論文を生みたいわけじゃあないのです。でも今は論文の魅惑と毒に絡めとられてあーうー、身動きがとれない。人生は不条理だなんて思いたくない。子供が欲しいと、思ってみたい。 WETな時間と自己 - 猫の現象学

 

ロゴスエモアワード2015は面白い企画です。奮ってご参加を。

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『ロゴスエモアワード2015』エントリー一覧 - ロゴスエモ

 

青空文庫より拝借>

芥川龍之介 トロッコ

梶井基次郎 桜の樹の下には

新美南吉 ごん狐

宮沢賢治 よだかの星

太宰治 正義と微笑

 

*1:窃盗じゃあ、ありませんよ