コミュ障が節子を殺す
ネタバレを含みますのでご注意ください。
『火垂るの墓』は戦争の凄惨さを描いた作品であり、同時に、現代を生きる「(広義の)コミュ障」の生き様を描いた作品でもあるのではないかと、私には感じられました。
主人公は清太14歳と節子4歳。ふたりは海軍士官のご子息ご令嬢で、特に清太は自分の父と日本海軍を誇りに思っています。
戦時中という国家レベルの非常事態のなか、周囲のすべての人が「生きるか死ぬか」の瀬戸際で生きることを迫られています。お坊っちゃま育ちの清太と節子はどのように振る舞い、それは周囲にどう映るでしょうか。
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清太は戦争という現実からひたすら目を背け、刹那的な希望とともに生きているように見えます。結果的に、その姿勢によって環境の変化(孤児になったり、親戚に引き取られたり)に適応できず、愛する節子を失ったあげく、自分の命まで失います。
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こう書いておきながら、私は清太だけを責める気にはなれません。 そもそも、彼は庶民ではありません。14歳にしてすでに7000円以上も(当時は家一軒が2000円との噂)自分の貯金を持っています。ゆとりある家庭に育ち、自分の身の回りの仕事をする必要もなかったのです。*1
ある程度権力者の父を持ち、疑いようもなく愛されて育ったから、彼は自分の立ち位置を意識する眼や大人に媚びるような振る舞いを必要としなかったのでしょうか。*2
居候させてもらっている身分で、親戚にろくに礼もいわず、コミュニケーションをとらず、皿も洗わず、文句は一丁前に言い、空気を読まない、媚びないスタイルの彼を快く思わない方も多いでしょう。
しかし実は、媚びたり空気を読んだりする必要があるのは相対的弱者の立場ではないでしょうか。きっと清太は、自分を弱者だとは思っていなかったはずです。
純粋に日本は戦争に勝つと信じている。自分にはそれなりのお金もあるし行動力もある。だから、うるさい大人たちから逃げて(=自分の殻を破ろうとせず、共同体への所属やコミュニケーションから逃げて)、子どもだけで暮らして戦争が終わるのをやりすごせば良い、父がじきに迎えに来るとでも考えている。じつに子どもらしい発想ではありませんか(私はなるべく関わりあいになりたくありませんが)。
「自分には何でもできる」という大きな志は14歳なら持っていてもおかしくはないでしょう。そのくらいのナルシシズムは将来大きな仕事を成し遂げる際に必要です。私たちは生きていれば、望まなくても身の丈を知らされ潰されていくわけですから。
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しかし、清太のようなメンタリティと判断力では非常事態では通用しないと高畑監督は仰るわけです。
清太はたしかに妹想いの優しい兄でした。しかしその幼い精神と未熟な判断力でままごとのような生活をした挙げ句、節子を栄養失調で殺しました。節子はまだ4歳で、さすがに自分の意志で何かをするには精神的にまだ肉体的にも心許なく、庇護の対象となって然るべき存在です。
彼はそれでも本気で生きようとしたのかも知れません。とはいえ、その生活が長く続かないことは誰の目にも明らかだったでしょう。彼は彼で、両親も最後の希望だった節子さえも失ったショックですべてを投げ出し、衰弱死したというところでしょうか。仮に生きのびていたとしても、戦後、孤児として1人で生きていけるような柔軟性を清太は持ち得なかったでしょう。
死してなお地縛霊のように同じところにいつづけるふたりは、復興した現代の日本をただただ見ていることしかできません。
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人間は、社会のなかで生きる生物です。つまり、極端な、異端な生き方を貫こうとすると、清太と節子のように死ぬことになりますので、生きていくにはコミュ力を磨き自分が先に折れたりして社会に迎合することも必要だというわけです*3。
死と引き換えに自分を貫くことが幸福かどうかは、もちろん人によります。
ただ少なくとも、高畑監督の死生観は「死んだら終わり」ということなのではないかと、私には思われます。