猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

WETな時間と自己

 毎日、前に進まなければいけないと思う。「何かしら積み上げなくてはいけない」と勝手に焦っている。物理的な時間が不可逆的に流れているのに対し、「私の」時間は流れず、何度も同じ一日を繰り返しているように感じる。

 日課の「料理や掃除や洗濯」は、いくらやっても前に進んだ感じがしない。何度繰り返しても「元に戻って」しまう。料理は食べてしまえばエネルギーとなり排泄されるし放っておけば腐る。つまり自然にかえる。掃除や洗濯も、建築物や衣類が朽ちる過程を遅らせているに過ぎない。循環する時間のなかにはまりこんでしまったようだ。

 「私」が「生きる」には、時間は「流れて」いなくてはいけない、と思いこんでいる。不可逆的な時間に対して、なかば強迫的に自分なりの意味づけをしたくてたまらない。しかもその意味づけにかんして、何かを構築したり生み出したりしてそれを形として「残す」ことに重きを置いている。先に循環と形容した「メンテナンス作業」に価値を見いだせない。

 料理が上達するとか、部屋が綺麗になるなどと前向きに捉えることができないものだろうか。世界でも屈指の美味しい料理に出会う機会が、東京にはたくさんある。 

 

 私は「大した人間でもない自分の人生に特に意味はない」ことを知っている。しかし同時に、意味づけをしないでいれば肥大した自意識が私を追いつめる。私は顔も知らない誰かのために命を投げ打てるほど強くない。

 

 死を除いたすべては相対的なものだ。死は絶対だ。意味のない生を受けいれることができない私は、いまではなぜか、絶対的未来である「死」までの限られた時間を少しでも何かしらの表現活動に充てたいと感じる。表現によって「時間が前に流れ、己のなかに沈殿していく」ような気がしている。むしろ「自分の中では循環あるいは止まっているような時間」を使って、創作物を残すことによって、前にしか進まない「物理的な時間」のなかへ自分の存在を確保できると思い込んでいる。

 

3 

 日記などに代表される、私の表現への羨望は、失われるわりに発展性の乏しい 「物理的時間」の消費への抵抗だ。創作にあこがれ、できる限り 「美しく」時間を失ってゆきたいと思った7年前と、本質的にあまり進歩していない。

 

 本当にしたいことは、まだはっきりとわからない。好きになる努力が足りていないのかもしれない。「本当に」のハードルが高いのかもしれない。「表現したい」という一歩が手記を書くことなのだろうか。こうして何かを書きたいという欲求は紛れもなくいまの己の意志であり、失われかけている意欲がいっとき沸き立つことだ。 ゆくゆくは手記以外の何らかの形で「意味のない時間」も引き受けることができるようになりたいのだ。

 私は、私に、自由になりたい。