猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

気分の記録:認識(自己以外のものの存在感)について

 「私は世界をどのように認識しているか」について、自意識というかメタ認知能力(transzendental?統覚?)からしばらく考えていきたいのだが、どこからはじめようか悩んでいる。

 「人は、なぜ世界の存在を疑わずに生きていられるのか。自己だけでなく他者の存在を認められるのか。なぜ目の前のネギを認識できるのか。」

 この問いを己に課し続ける理由は「世界に存在している実感を得たい、世界に意味を見いだしたい、つまり普通に生活したい」からだ。 とはいえ、今のところ私は目の前にネギがあることやPCがあることを疑わないで済んでいてブログを開設したりできている。けれど世界の見え方は健常者より少し異なっている。 

 

 過去における食材の認識は下記のようだった。

目の前にネギと豆腐とワカメと味噌がある→さらにまな板と包丁と丁度良いサイズの鍋がある

→「料理を作ることができる可能性」を感じる。例えば「簡易的な味噌汁を作れる」など 

 現状の認識では下記のように変わった。

・目の前のネギが無機質というかプラスチックか何かで構成されているように見える
・それはネギに見えるし独特の匂いも感じるが、そこにネギが存在しているだけで「料理に使える」などと感じられない。
・何と言えば良いのか、これまでのネギとは違う(笑)
・私はクックパッドの指示通りに、ネギを切ることもできる。しかし、それを「食べ物」だと感じない
「食べる、という行動とネギが結びつかない」。 まあ対象はネギじゃなくてもいいんだけど
 昼時になってお腹が鳴ると頭で「お腹が減っているはずだ」と考える。だが目の前のご飯は食べ物に見えない。食べ物であるという実感がない。
 そのうち焦って「これは食べられるご飯というものだ。これまで食べてきたのだから」と自分を説得する作業にうつる。味を認識できた途端、食べ続ける意味がわからなくなるので食べることを止める。
 
 眼球が正常に機能してて脳があってちゃんとモノが見えているのにそれに意味を付与できないっていうのは物理的な問いではない、でいいんだよね?