猫日記

猫に文章を描かせた

ライティングの授業の課題で

久しぶりに開いた。エッセイたるものを書かなければいけない。確か私はかつてここでエッセイに近しいジャンルのものを記載していたはずである。

先日、社会人学生として美術大学に入学した。専攻の性質上、必修科目には記述能力が問われる授業が並んでいるのであった。

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さて、一昨年の備忘録に「己が食っていけるとしたら」という走り書きがあった。時間を経てふりかえったところ、当時は認識できていなかったが、己の強みはもしかしたら「ものごとの構造をとらえる力」なのかもしれないと思った。

もっとも、この力には厄介な副作用がある。何かに取り組もうとすると、その枠組みからはみ出してしまう。あの広大な敷地を誇るはずの哲学ですら例外ではなく、「これだと哲学科の論文にならないので」という理由から卒業論文の論旨を改める結果となった。当時の己は、哲学と心理学と精神病理学を貫く一つの構造を書こうとしていた、そしてそれは生みの親であるはずの哲学に還元されるのではないかと信じていたのだが、それもなお、哲学という分野の作法から逸脱していたのである。

仮説としては、「同様の構造であればすべての学問等に応用可能である」という想いが先に立つからいけない。その意識で研究を進めてしまうと、分野の内側にある構造ではなく、分野を貫く上位構造に目が向いてしまう。当然、分野の壁を突き抜けてしまうわけで。

現在も、自分で立ち上げたはずのプロジェクトの枠に自分がはまりきることができず、ざっくりした枠組みないかな~と途方に暮れていたところ、それは現前した。「デザイン」であった。

デザインとは対象領域を問わない営みである。プロダクトであれ、組織であれ、ある条件のなかで目的に向けて構造を与えることを「デザインする」と呼ぶのではないか*1。もしかするとこの枠組みのなかでなら、はみ出さずに済むのかもしれない。

 

lechatdusamedi.hatenablog.com

 

*1:ハーバート・サイモンの古典的定義「現状をより好ましい状況に変えるべく行動の道筋を考案する者は、誰でもデザインしている」『システムの科学』1969

備忘録:わたしは何と戦っているのか

 恐らくここは、一定レベルの条件をクリアすれば、個別性はそこまで問われない世界でしょう。すなわち「一定の若さと健康的な美しさを求められる世界」であり、新人の入る都度、ダイレクトに種の保存則に脅かされて生きねばならないことが、われわれ女性の課題のように思われます。
 わたしは何と戦っているんだろう?と自問自答する。原因は子どもを持たないせいかも知れない。わたしは古いバージョンの人類であって、理性の発達が不十分だからくだらない動物的本能に負けてしまっているのだ。圧倒的敗北。子どもさえいたらわたしはすでに種の保存に成功したという遺伝子レベルの安心感を得、周囲の無邪気さに気を取られずに済むのだろう。けれども私はおはなやさんになりたかったから、素朴な安心感を得ることもできずに何かに追い立てられて生きつづけるしかない。美しいおはなを追い求めるほど醜悪な自分に気づかされる人生だ。周囲をうつくしいおはなで埋め尽くしたとしても、きっと死ぬまでこの地獄から解放されることはないのだろう