猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

ゼロに戻す仕事

 数年前、わたしはこんなエントリを書いた。

 当時は「自分は抑うつ状態だからこんなことを考えてしまうのだ」という心境のもと書いた。もちろん「自分は何者かにならねばならない」的な、若気の至りのような部分も大いにあった。

 しかし歳を重ねた今もなお、繰り返し同じことを、しかも以前に増して何度も考えてしまっていることに気づいた。この気持ちに名前をつけるとしたら「己の存在意義(レゾン・デートル)の模索」「それに付随する承認欲求」なんだと思う。いい歳こいて、我ながら非常に気持ちが悪い。

 

 あのエントリを今読み返すと、難解な言葉を用いていることもありいまいち意味がとりづらいから、この期に及んで書き直そうと思う。

 後に引用した文をいまの自分の言葉で言い直す。

 

 わたしは毎日何かをゼロに戻す仕事をしている。ゼロに戻すというのは、「穴を掘っては埋めるような意味のない仕事」という意味だ。

 例えば、家の掃除は。

   散らかったものを元の位置に戻し、元々なかったごみやホコリなどを廃棄することで部屋の原状回復をする仕事ではないか。したがって、マイナスをゼロに戻す仕事だと感じている。

 例えば、洗濯は。

   これも汗などで汚れた衣類の原状回復だ。マイナスをゼロに戻す仕事だ。

 例えば、料理は…。

   これは唯一自分が何か作り出すという意味で、プラスのことかも知れない。ただ、料理に付随してくる皿洗いや調理器具の洗浄は原状回復であり、マイナスをゼロに戻す仕事だ。 

 このように、家事はほとんどがマイナスをゼロに戻す仕事で、毎日穴を掘っては埋めるようなことの繰り返しだ。

   すると私には、仕事が前に進んだように思えない。毎日リセットボタンを押されているように感じられる。毎日すべてがやり直しで、何も積み上がらない。

 その一方で、自分は歳を重ね老けていく。女にとって老化とは魅力を失うこととほぼ同義だ。何も積み上がらない毎日を送りながら、若い肉体には多少秘められていたある種の存在価値(究極的にはないけれど)を、刻一刻と失っていくのだ。

 

 

 毎日、前に進まなければいけないと思う。「何かしら積み上げなくてはいけない」と勝手に焦っている。物理的な時間が不可逆的に流れているのに対し、「私の」時間が流れずに、何度も同じ一日を繰り返しているように感じる。

 日課の「料理や掃除や洗濯」は、いくらやっても前に進んだ感じがしない。何度繰り返しても「元に戻って」しまう。料理は食べてしまえばエネルギーとなり排泄されるし放っておけば腐る。つまり自然にかえる。掃除や洗濯も、建築物や衣類が朽ちる過程を遅らせているに過ぎない。循環する時間のなかにはまりこんでしまったようだ。

 「私」が「生きる」には、時間は「流れて」いなくてはいけない、と思いこんでいる。不可逆的な時間に対して、なかば強迫的に自分なりの意味づけをしたくてたまらない。しかもその意味づけにかんして、何かを構築したり生み出したりしてそれを形として「残す」ことに重きを置いている。先に循環と形容した「メンテナンス作業」に価値を見いだせない。

 料理が上達するとか、部屋が綺麗になるなどと前向きに捉えることができないものだろうか。世界でも屈指の美味しい料理に出会う機会が、東京にはたくさんある。 

 

 

コミュ障が節子を殺す

ネタバレを含みますのでご注意ください。


  『火垂るの墓』は戦争の悲惨さを描いた作品であり、同時に、現代を生きる「(広義の)コミュ障」の生き様を描いた作品でもあるのではないかと、私には感じられました。

 

   主人公は清太14歳と節子4歳。ふたりは海軍士官のご子息ご令嬢で、特に清太は自分の父と日本海軍を誇りに思っています。

   戦時中という国家レベルの非常事態のなか、周囲のすべての人が「生きるか死ぬか」の瀬戸際で生きることを迫られています。お坊っちゃま育ちの清太と節子はどのように振る舞い、それは周囲にどう映るでしょうか。

 

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   清太は戦争という現実からひたすら目を背け、刹那的な希望とともに生きているように見えます。結果的に、その姿勢によって環境の変化(孤児になったり、親戚に引き取られたり)に適応できず、愛する節子を失ったあげく、自分の命まで失います。

 

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 こう書いておきながら、私は清太だけを責める気にはなれません。 そもそも、彼は庶民ではありません。14歳にしてすでに7000円以上も(当時は家一軒が2000円との噂)自分の貯金を持っています。ゆとりある家庭に育ち、自分の身の回りの仕事をする必要もなかったのです。*1

  ある程度権力者の父を持ち、疑いようもなく愛されて育ったから、彼は自分の立ち位置を意識する眼や大人に媚びるような振る舞いを必要としなかったのでしょうか。*2

   居候させてもらっている身分で、親戚にろくに礼もいわず、コミュニケーションをとらず、皿も洗わず、文句は一丁前に言い、空気を読まない、媚びないスタイルの彼を快く思わない方も多いでしょう。

   しかし実は、媚びたり空気を読んだりする必要があるのは相対的弱者の立場ではないでしょうか。きっと清太は、自分を弱者だとは思っていなかったはずです。

   純粋に日本は戦争に勝つと信じている。自分にはそれなりのお金もあるし行動力もある。だから、うるさい大人たちから逃げて(=自分の殻を破ろうとせず、共同体への所属やコミュニケーションから逃げて)、子どもだけで暮らして戦争が終わるのをやりすごせば良い、父がじきに迎えに来るとでも考えている。じつに子どもらしい発想ではありませんか(まあ、私はなるべく関わりあいになりたくありませんが)。

「自分には何でもできる」という大きな志は14歳なら持っていてもおかしくはないでしょう。そのくらいのナルシシズムは将来大きな仕事を成し遂げる際に必要です。私たちは生きていれば、望まなくても身の丈を知らされ潰されていくわけですから。

 

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  しかし、清太のようなメンタリティと判断力では非常事態では通用しないと高畑監督は仰るわけです。

   清太はたしかに妹想いの優しい兄でした。しかしその幼い精神と未熟な判断力でままごとのような生活をした挙げ句、節子を栄養失調で殺しました。節子はまだ4歳で、さすがに自分の意志で何かをするには精神的にまだ肉体的にも心許なく、庇護の対象となって然るべき存在です。

   彼はそれでも本気で生きようとしたのかも知れません。とはいえ、その生活が長く続かないことは誰の目にも明らかだったでしょう。彼は彼で、両親も最後の希望だった節子さえも失ったショックですべてを投げ出し、衰弱死したというところでしょうか。仮に生きのびていたとしても、戦後、孤児として1人で生きていけるような柔軟性を清太は持ち得なかったでしょう。


   死してなお地縛霊のように同じところにいつづけるふたりは、復興した現代の日本をただただ見ていることしかできません。

 

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   人間は、社会のなかで生きる生物です。つまり、極端な、異端な生き方を貫こうとすると、清太と節子のように死ぬことになりますので、生きていくにはコミュ力を磨き自分が先に折れたりして社会に迎合することも必要だというわけです*3

  死と引き換えに自分を貫くことが幸福かどうかは、もちろん人によります。

 

  ただ少なくとも、高畑監督の死生観は「死んだら終わり」ということなのではないかと、私には思われます。

*1:まるで現代の日本人みたいですね。衣食住に困らず、自分の好きなことだけできて

*2:少子化の影響もあり、学校の先生も子どもに対してわりと対等な話し方をする必要に迫られてますよね

*3:今は時代が違いますが、こんなにコミュ力を要請される社会というのは、ある意味全体主義的なんでしょうかね