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猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

日本人の自分は、ふだん何語で考えごとをしているか

 私はふだん何語でもないイメージで考えごとをします。そしてそれは後天的な習慣です。上の記事を拝読し、自分の経験に照らして思うところがあったので記しておきたいと思います。

 14歳のとき、超短期間ではありますが英語圏にホームステイをした経験があります。それが原因だなどと短絡的に考えたくはないけれど、私はいまでもとっさの日本語が出てきません。何語なら出て来るのかという問題ではなく、言語化される前の混沌が標準よりも長いのだと思います。

 ホームステイ以前の記憶をたどってみると「日本語の語順で考え」「日本語の語順通りに発話」していたように思います。この頃はいわゆる女の子特有の口達者で、言いよどむどころか口から生まれたようだったと周囲の人から聞きました。今の私しか知らない人はたいへん驚くことでしょう。

 短期間とはいえ、ホームステイの間日本語を全く使わないまま生活し授業を受けていたところ、いつの間にか寝言まで英語になっていました。帰国してから日本語を取り戻すのに少々苦労しました。今も何か話すときには常に迷っていて、どこに引っかかっているかというと「頭の中にあるイメージをどのように言葉(日本語)に直すのか」というところです。具体的には、いちばん適切な単語をネイティヴのような精度で選べないとか、一般的に用いられる構文(言い回し?)がぴんとこないとか、日本語も英語もどちらもしっくりきていない状態が続いています。

 こうして迷いながらゆっくり話すさまは、事情を知らない周囲からするとネガティヴな方向には「頭の回転が遅い」、ポジティヴな方向では「言葉を選んでいるのだろう」と判断されがちです。

 思うに、話すことが得意な人は、「x国語で考え」、「x国語の順番で話す」ことが難なくできているのではないでしょうか。頭の回転が速くイメージを言葉に翻訳するスピードが早いのかもしれませんし、言語化の精度よりも間とテンポを重視しているのかもしれません。かたや私はといえば、この短い文章を書くのにさえ悩みながら意図的に主語を抜く作業をしているのです。日本語の文章は主語を頻繁に入れてしまうと変だからです。日本語がきちんとできる人は、まるで脊髄反射のようにスムーズに主語の省略ができているように見えます。残念なことに私の力では、話すスピードになると推敲作業が追いつきません。

 「言語化することはそもそも難しい」という話もないことはないでしょうが、せっかく日本で生まれ育っていることだし日本語を正しく使える大人になりたいが、もはや無理なのか。

自信についての所感 その2

 前記事へのコメントや言及、落ち穂拾いまでありがとうございます。とても嬉しいです。

 「生きててよかったシリーズ」からこの素敵なマトリクスを拝借しました(自分で作るべきでしょうが、その時間を生徒プリントに使いたい)。

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 「ひょっとして俺/私 勉強も他もダメなんじゃね?」の生徒たちとは、特に密にコミュニケーションをとるように心がけています。だいたいそういう子たちは親御さんがお忙しく家庭での会話も少なめ(というか無)なので、言葉を使わない云々の前に、会話の頻度を保つことが最優先になってきます。

 普段無口な私もびっくりなほどシャイな子もいます。話したことがないからシャイなのか、シャイだからあまり話さないのかわかりませんが、シャイな子は友達も少数精鋭の傾向があり「会話」の絶対量が少なめです。会話は無理にするものではないですが、あまりに会話の量を確保できていないと「勉強の基礎力」とかいわれる国語の力がつきにくい可能性があります。

 「本を読め」と巷では言われますが、それは本に価値を感じる親を持ち、本を買ってもらえる恵まれた子だけでいいです。まずは生身の人間と会話することが重要ではないかと私は捉えています。多少教室が騒がしくなるのを覚悟でまわりの子と会話ができるように授業の進め方も考慮します。いまのところ会話が苦手な子たちはなぜか皆絵が上手です。自己表現は最初は絵でもかまわないので、罫線の引かれていない紙をわたします。ついでに「言葉を使わないで生きていくのは大変で、これより遥かに上手くかけないと芸大や美大には行けないんだよ*1」とかなんとか言って落書きを見せます。必死で絵を描きはじめたらそれはそれでもうけものです。

 生徒たちは賢いので先生がなぜそうしているのか薄々わかっているものです。拙いものではありますがこうしてコミュニケーションをとりつづけることで、自己否定へ向いている生徒たちのベクトルを少しでも肯定の方向に向けてもらいたい。「ひょっとして俺/私勉強以外なら」の象限にいってほしい。無理は承知の上です。そもそも私のような塾講師ごときのできるものではないのです。もしかしたら言語聴覚士臨床心理士の出番かも知れません。

 けれど、昔カウンセリングに通っていたとき「母の役割は代替可能」と聞いた気がするし、私は一応女なので原始的乳房*2の5千万分の1くらいの役割なら果たせるのではないか、と一縷の望みをかけて取り組んでいます。「先生は見ているよ」「話を聞いているよ」「あなたたちを信じている」「まずは生きて」とメッセージを送り続けて、彼らの自信が少しでも回復したらいいなと思っています。最近、生徒たちは紙に絵や暗号をかいて持ってきてくれるようになりました。笑顔も出てきた。彼らには柔軟性があって、変われるはず。

 

 難しいのは、中学受験生のようにも思います。またそのうちかきます。

 

 

*1:その後の進路については何も言わないのが大人のずるいところですが

*2:根源的な母の役割のこと、とでも言っておきます