Ⅰ.緒言
青二才さまのこちらのエントリが興味深いと私の中で話題になったので、純粋にハゲのパラドックス(以下、「ハゲパラ」)について吟味*1してみたいと思います。なお、本論に先立ってハゲパラの論理展開を以下に記しておきます。
「髪の毛が一本もない人はハゲである」(前提1)
「よって全ての人はハゲである」(結論)*2
「ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである」(前提2)
ここで前提1に前提2を繰り返し適用していく(つまりツルッパゲの人に髪の毛を一本ずつ足していく)。そして次の結論を得る。
Ⅱ.超越論的ハゲ原理論
オバQはハゲか
Ⅱ-Ⅰ.感性論
大学一般教養の数学において、「ハゲパラ」に対し「ファジー集合」の概念が語られている。具体的な例では「『オバQはハゲである』という命題の検討」である。この検討はおおむね、純粋ハゲパラにおける前提2の成立条件の批判と換言できよう。
(ⅰ)古典集合論では「ハゲ」と「ハゲでない」を明確に定義する。
<例>顔を横から見て、耳の中心から垂直にひいた線と前頭部の生え際が2cmよりも近いとき、その人はハゲである。
- この基準は額の生え際が後退するタイプのハゲには適用できるが、フランシスコ・ザビエルタイプのハゲや、円形脱毛などには該当しない。
在りし日のザビエル氏
(ⅱ)「ファジー」という考え方を用いると、曖昧な(境界がはっきりしない)事象を定量化し集合的に扱うことができる。
- ハゲとハゲでないを明確に区別せずに、「ファジー論理」によってファジー集合の演算が可能とされる。
- ファジー論理は(主観的な)不確かさを「メンバシップ関数」によって表現できる(例えば「ハゲだ」が真である度合いは0.3,「ハゲでない」が真である度合いは0.7など)。
- メンバシップ関数によっては、オバQはハゲでないといえる。
(ⅲ)集合的合意による定義
- 集団における個人の定義の分布の期待値を用いて「ハゲ」の定義(確からしさ)を確率的に決定することが可能とされる。
- たぶんオバQがハゲである確率がわかる。
(ⅳ)自分でハゲだと思う
- オバQ自身は「オバケのなかでは毛が生えているほう」だと思っているような気がする。
Ⅱ−Ⅱ.分析論
- 自明な解決策(哲学)においては、「ハゲ」という言葉は定義の曖昧な概念であり、論理を適用できないとする。
- 人間には、オバQがハゲかどうか判断不可能。
Ⅲ.超越論的方法論
ハゲへの理性的な関心は下記のように区分される。
- ハゲの何を知りうるか(ハゲとは何か)
- ハゲに対し何を為すべきか
- 何をハゲの対処として希望しうるか
過去の諸議論より、「男にとってハゲとは何か」という問いが哲学者によって提示されている。また、応用として「カツラ」に関する考察もなされ「カツラの本質は、“いかに自己の存在感を消すか”にある」という思想が生まれた。
臨床哲学の場においては、「カツラ蒸れによる脱毛の悪循環」「増毛技術における地毛への諸負荷による脱毛の悪循環」仮説が唱えられており、「なぜ、ふりかけ増毛は効果があるといえるのか」などの懐疑論も提出されている。
医学的観点から導かれた「相対的な男性ホルモン過多が引き起こすハゲ促進可能性」という仮説に対しては、「女性ホルモン投与による脱毛阻止効果」測定実験が行われ、プラセボと比較し有意差があるとみられている。
現在も悩める人々を救うため日々研究が進められている。*3
Ⅳ.ハゲの現象学
私たちは、ある一定の合意によって暫定的にハゲを定義することができる。一方、人それぞれハゲに対する捉え方は異なる。知覚による現象学的考察においては、私のハゲが知覚の「対象」になるか「自己自身である」かはどちらともいえない。すなわち、両義的である。
ハゲ自体は人間理性には不可知である。しかしハゲのリアリティは、明確に自覚されたときに両義的なものとなり、その状態が<「私=ハゲ」という世界認識>である。
Ⅴ.結論
ハゲは両義的であり、相対的なものである。私たちは、各々が環境に即して「集団的合意に基づきハゲの対象とされる」か「自己がハゲを気にしているに過ぎない」か、常に検討する姿勢が大切である。道徳的行為として、場(集合体)の様子から「現状自分がどちらのカテゴリとして集団的に合意されているか」察する力を養うことが好ましい。
「美」はいわば道徳的なるものの象徴である。理性的存在者の自由意志として、ハゲを美的に行使できないと判断した場合、増毛手段の模索が決定的に優先される。ただし、ハゲを美しい武器にできるならば、ありのままのハゲであることが最高善である。