猫日記

だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

偶然を生きる (備忘)

 「何者かにならねばならない」という思いの強まる一方で「きっと何者にもなれない」という現実が首を擡げる。そこでしばしば、何者にもなれずとも「自分になる」ことができる……というメッセージ(ティモンディ高岸の言うところの「あなたの150km/h」)が、人を勇気づけるために用いられる。

「珠に非ざる」場合であっても「何者か」になれるか

 個を貫きかつ「珠」といえるようなレベルにまで磨き上げるのは、秀才の李徴子でさえ失敗した非常に難易度の高い仕事だと思う。個を貫くことにこだわりすぎると却って「虎」になるように、個別性を喪ってしまう危険性をも孕む。

 一方、何者かを何者たらしめる輪郭は、本人の能力のみならず環境(組み合わせ、巡り合わせ)によっても決まってくる。その時たまたまその場に居合わせたという偶然性によっても「何者」の輪郭が描かれていくものだ。

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‘’理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ‘’

 押し付けられたカードと押し付けられた環境、それらを綜合して私たちは「自分の」人生を生きることになる。パラレルワールドでもない限り、他の人と全く同じ組み合わせのカードで同時に同じ人生を歩むことはない。だから全員が「大谷翔平」になる必要もないし、なろうとしたところで配られたカードとタイミングが異なるなら、大谷になれない事実を突きつけられるだけである。仮に大谷を意識して生きて――即ち他人の人生を追いかけたところで、他人にはなれない虚しさを味わうばかりだ。

 多数派の感覚を持ち得れば、その不運について共感しあい背中を押してくれる仲間も多く出来るのだろう。だが自分の場合、配られたカードはそういう組み合わせではなかった。まさに「まちがいさがしの、間違ったほう」に生まれてきてしまった。

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‘’わたしは、パンダと似た戦略をとって生き延びてきた人類の子孫なのではなかろうか……圧倒的な強みがない、あるいは相対的弱者であるため、強いていえば勘をはたらかせ積極的に異端を選び取りブルーオーシャンを開拓する……‘’

 かつてそんな愚痴を吐きつつ己は誰に似たものかと悩んでいたが、この期に及んで偶然、一度も会ったことのない親戚とカードの組み合わせが類似していることが判明した。ただ、その親戚には私と違い優秀な頭脳が搭載されており、ある意味で理解者の少ない(例、「理解できていそうな人が国内に数十人いるかどうか」などという数学や物理の問題があるだろう…)分野が専門のようだ。ノーベル賞などを受賞していないところを見るに李徴子的には「珠に非ざる」だろうが、与えられた環境に即しカードを巧みに切って余すところなく使いこなし、世間とのバランスをとりながら見事に「自分になって」いるように、私には見えた。

 ニッチかつ大変高い能力を要するとはいえ既にフィールドが存在しており、親類に(ある意味で)先人がいたと知れたのは、今後もうちょっと長く生きようとする上で心強い。素朴実在論を肯定できるようになったというか、世界の存在に疑いを持たずに済む程度にはメンタルが安定してきたようだ。これでやっと個別具体的な対象に目を向けられるようにもなろう(よだれ鶏を作り、そのゆで汁を卵スープにしたりできるようになる…)。